献金再考

牧師たちへ

献金袋によく書かれているこの言葉…これに葛藤を覚える牧師はどれだけいるのだうろう。この聖句は旧約時代、神に献げる生贄の規定箇所。十分の一献金の根拠と説われているが、そうではないのが実態だ。そもそも、十分の一献金の聖書的根拠はなく、人間がこの箇所の意味をすり替えて造った制度に他ならない。今日で言う「献金」は宗教団体を運営する予算であり、実質的に宗教家の給料である。これは、年度末に行われる予算総会を見ても明白だろう。「聖書は誤りなき神の言葉」と告白しつつ、無理矢理な聖書解釈を適用することに良心は痛まないのかな?この事実を指摘しても、「神に献げている」と豪語するのがクリスチャンのマネーリテラシーだ。こんな言葉を献金袋に記載している時点で、「宣教の業」が「宗教ビジネス」にレベルダウンしてしまっている。講壇から罪のゆるしを説きつつ、献金を神に献げると称して献金袋を回すのは「現在の免罪符」だろう。つまり、聖書が給料を保証する道具になっているのだ。それは「神への献身」が、神学校を卒業し、教会に就職し、十分の一献金で飯を食うレベルになったことを意味している。

年度末の総会を前にして、献金袋にこの言葉を載せる意味を考え直してほしい。「キリスト教」と「真理」どちらを選ぶべきなのかを…あなたが献金袋に入れる現金は、天国の道を保証しない。元々1円も神に献げられないのだから。「牧師の言うことは全て正しい」と鵜呑みにしてはいけない。牧師は神学校を卒業した、ただの人でしかないのだから。詐欺による献金に対して、詐欺罪の有罪判決も出ていることから(法の華三法行)、自己都合の聖書解釈を推し進めるのにも、もう限界にきてるんじゃないかな?「コロナ禍」という変化を求められている時代が、聖書へ原点回帰する機会になることを願うばかりだ。本当に魅力があるなら、こんな子供騙しをしなくても必要は備わるのでは?信仰は神との契約であり信託なのだから。

あなたの良心がもし葛藤しているのなら、自分に素直になれるよう祈ります🙏「自分を偽り続ける人生」って生きてる意味ないですよね。もし「この言葉を載せていれば安泰」…っという思いが心の片隅にあるなら、もう牧師は辞めたほうがいいんじゃないかな?自ら保険をかける者に「神に委ねよ」など壇上から言えないでしょう。結局のところ、信じていいのは神と法と筋肉…これだけや!💪✌️

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